狢の妖怪物語


第壱回 転生の章
原題:名無し狢のはなし

作:自夜


むかぁし、むかぁし、ある山に名もない狢が棲んでおった

この名無しの狢、この山一番の長生きで、妖怪になって既に何百年もたっとるそうじゃ
山の獣たちは名無しの狢から生きる知恵などを教わっておったが妖怪は妖怪、怖いものは怖
い、日頃は名無しの狢に会おうとはせんじゃった。狸たちも、まだ妖怪になってない狢たち
も山でばったり名無しの狢に会うても知らん顔じゃ
この山には名無しの狢と親しいものはおらん。たまさか訪れるこれまた妖怪の灰色狐と夜を
通して酒酌み交わすくらいじゃ
じゃから、名無しの狢はいつも独りで人を襲い、人を化かし、人を困らせて暮らしとった

この日も名無しの狢は幼女を喰らい、腹一杯になったので、道端で休んでおった
そこに、かわいらしいべべを着た五六歳の娘子がめそめそ泣きながら通りがかった
ふむ、美味そうな娘子じゃわい
名無しの狢はそう思うたが、腹一杯じゃったので、知らんふりしちょった
娘子は名無しの狢の前まで来ると、しゃがみ込んでしもうた
しばらくは知らんふりしちょった名無しの狢じゃが、目の前で辛気くさく泣かれると、せっ
かくの満腹で幸せな気持ちが削がれてしまう。名無しの狢はとうとう我慢できずに娘子に話
しかけた

「ごら、そこの娘。わしは人を喰らう狢じゃど。喰われんうちにさっさと去れい」
ところが娘子は変わらずに泣き続ける
困ってしまった名無しの狢は娘子を困らせるために、みるみる見た目もおどろしい大入道に
化け
「去らぬと本気で喰ろうてしまうぞ」
と脅かした。ところが娘子は驚いて逃げるどころか、泣きながらも名無しの狢にこう言うた
「どうか、喰ろうてください」
はて、自ら喰ろうてくれとはどういうことかいなと名無しの狢は思うた
娘子は泣きながらもぽつりぽつりと名無しの狢に語りかける

「ととうもかかあも戦に巻き込まれて死んでしまいました」
「喰う為に殺すのは悪いことではないと聞きます」
「だったら、喰われるのも悪いことではないと思います」
「どうか、あたしを喰ろうてください」
「あたしを喰ろうて、ととうとかかあのところへ送って下さい」
逃げまどう幼女を追いつめて喰うのは名無しの狢の楽しみじゃが、自ら喰ろうてくれと頼む
娘子を喰うのは気がのらんかった

名無しの狢は一刻思案し、行商人に化けて娘子を連れて歩き出した
幾つかの山を越え、幾つかの川を渡って行商人の名無しの狢と娘子はある村に辿り着き、
ある百姓屋を訪ねた
その百姓屋の夫婦は一人娘を亡くし、嘆き悲しみながら暮らしておった。一人娘を喰ろうて
しもうたのは、当の名無しの狢じゃったんじゃがの
「おや、どうさっしゃった」
「旅の途中でこの娘子を拾うての、聞けば親を亡くしたと言う。そこで一人娘を亡くしたお
 まえさんがたを思い出しての。どうじゃろう、この娘子を我が子と思うて、育ててくれん
 か」
夫婦は最初戸惑うた顔しとったが、娘子を不憫に思うたか、行商人に承知したと答えんしゃっ
た。肩の荷が下りた行商人は礼を述べ道の角を曲がった途端、元の狢に戻り、自分のねぐら
に飛んで帰った

多少は心残りのあった名無しの狢は何かのおりに百姓屋を垣間見、娘子が夫婦にかわいがっ
てもろうとる様子を知って安心した

それから幾日か経って、ねぐらでくつろいどる名無しの狢は異様の気配を感じた
「誰じゃ、そこに居るとは」
気配は纏まってねぐらの宙に浮かんだ。人間には見えん気配じゃ。狢にも見えん。名無しの
狢は感じとるだけじゃった
「ぬしは幽霊じゃな。この妖怪である狢に何の用じゃ」
名無しの狢の耳にか細い声が聞こえた。聞こえたように感じた

「狢さん、あたしです。狢さんに拾ってもらったあたしです」
「だから誰じゃと聞いとる。何の用じゃ」
「狢さんに百姓屋に連れて行ってもらったあたしです」
「なんや、おんしか。またなして幽霊などやっとる。死にでもしたか」
気配は形を変え、名無しの狢の目にもぼんやりと人の形に見えた
「無理せんでええ、なりたてやろう。何があった。虐められでもしたか」
「いいえ、新しいととうもかかあも大層優しくしてくれました。あたしも新しいととうと
 かかあが出来て、大層嬉しく思いました。ところが病にかかり、死んでしまいました」
「せか、死んじょることは知っとるんやな」
「はい。大層苦しい思いをしました。死ぬと身体が軽くなって、楽になって、こんなことな
 ら早ように死んでおけばと思いました」
「うむ。死んだものはみなそういうな」
「ととうとかかあは大層悲しんでくれました。二度も娘を亡くして大層可哀相なことをした
 と思います」
娘子の姿はだいぶはっきりしてきた。目や鼻もぼんやりわかった

「あたしはここにいますよと、何回か声をかけてみましたが、ととうもかかあも気付いてく
 れませんでした。あぁ、もうここに居てはいけないんだ。そう思い百姓屋を出ました」
「せか、そりゃ難儀やったな」
「その後は、ふらふらしていました。こうしていれば、いずれ成仏して本当のととうとかか
 あに会えると思っていましたが、一向に何もおこりませんでした」
成仏なんてないんやと言いたい名無しの狢じゃったが、言うのをこらえた
「ふらふらしている時におばさん幽霊から狢さんがこの山に居ることを聞きました。だから
 こうして来てみました」
顔がはっきり判るようになった。涼しい顔だと名無しの狢は思うた

「事情は判った。幸いわしは妖怪じゃ。妖怪は幽霊なんぞ気にならん。子供の幽霊は生まれ
 変わるのも早いっちいう。その気になるまでここに居ってくれてええ」
「ありがとう」
娘子はそう言うて、頭を下げると姿を消した。霧が晴れるように姿を消した
それからも、名無しの狢は独りで人を襲い、人を化かし、人を困らせて暮らした
ねぐらに帰ると娘子の気配を感じた

ある日、ふと、その気配が消えた

「そうか、生まれ変わったんか。今度もええ親のおる家に生まれるとええのぉ」
名無しの狢はそう思った。そして、また人を襲い、人を化かし、人を困らせる暮らしをつづ
け、幾度かの季節が過ぎた
莫迦な人間共はあっちで戦、こっちで戦を繰り返し、名無しの狢もいつしか娘子のことは忘
れた

ある日、たまさか訪れてきた灰色狐と酒酌み交わしとると、狐が急にまじめな顔をしてこう
言った
「何か居ますね」
名無しの狢も気付いておった
「あたしゃねぇ、この世のもんでないものが苦手なんでございますよ」
そう言うと灰色狐はそそくさと帰っていった

名無しの狢は宙を見据え、こう言った
「ぬしはまた死によったか」
「はい。ご迷惑でしたでしょうか」
「気にせんでええ。狐はんは半分神さんやからな、神さんは穢れが苦手なんや」
「あたしは穢れでしょうか」
「神さんにとってはな。わしら正真正銘の妖怪にとってはどうってこたぁない。で、今度は
 どがいした」
娘子の幽霊はまたぼんやりと形をつくる

「はい。裕福な家に生まれて幸せな暮らしをしていましたが、一家そろって焼き殺されてし
 まいました」
「そりゃまた豪快やのう」
「はい。百姓一揆とかで町が襲われ、倉が破られ家に火を点けられました。ととうとかかあ
 と幼い弟と抱き合ったまま蒸し焼きにされてしまいました」
娘子の形ははっきりしてきた。多少目鼻立ちは違うけど、年嵩は前のときと同じくらいだな
と名無しの狢は思った

「目の前で、ととうの顔が崩れ、かかあの顔が崩れ、弟はあたしにしっかりしがみついたま
 ま炭になっていきました。こうして私だけ生き長らえることができました」
「まぁ、生きてはおらんがの」
「ととうとかかあと弟は消えてしまいました。成仏したのでしょうか。なぜあたしだけ置い
 ていかれたのでしょうか。あたしはいつまでたってもととうとかかあと弟と、そして本当
 のととうとかかあには会えないのでしょうか」
何百年も生きとる名無しの狢は死ねば全て消えてしまうことを知っとる。希に幽霊になるこ
ともあるが、いずれ消えてしまうことを知っとる。じゃが、娘子にそのことを言う気には名
無しの狢はなれんかった
「さあな。わしは死んだことないけ、判らん。まぁええ。また気が済むまでここに居ったら
 ええ」
「ありがとう」
娘子は頭を下げると姿を消した
それからも、名無しの狢は独りで人を襲い、人を化かし、人を困らせて暮らした

そしてある日、また娘子の気配が消えた

「今度は少しは長生きできるとええのぉ」
名無しの狢は娘子が居た宙を見つめ、そう言った
また何年か過ぎた。人間共の莫迦さかげんは相変わらずじゃった

この日も名無しの狢は幼女を喰らい、腹一杯になったので、道端で休んでおった
そこに半ば破れた鎧を着て、肩に矢がささったまま杖をついた侍が通りかかった
なんじゃ、侍か。肉も固くて不味そうじゃな
名無しの狢はそう思うたが、腹一杯じゃったので、知らんふりしちょった
侍は名無しの狢の前まで来ると、がっくりと膝をついてしもうた
しばらくは知らんふりしちょった名無しの狢じゃが、目の前で野垂れ死にされると、せっか
くの満腹で幸せな気持ちが削がれてしまう。名無しの狢はとうとう我慢できずに侍に話しか
けた

「ごら、そこの侍。わしの前でへたり込むな。ぶち殺されんうちにさっさと去れい」
侍はゆっくりと虚ろな目を名無しの狢に向けた
「も、物の怪か」
「そうじゃ。妖怪の中の妖怪、狢様じゃ」
「物の怪よ」
「狢様と呼べい」
「物の怪は命と引き替えに頼みを聞いてくれると聞いたが、誠か」
「そりゃ、南蛮の妖怪の話じゃ。わしは命なぞもろうても何にもならん」
「物の怪よ、拙者の命と引き替えに、我が恨み晴らしてくれぬか」
めんどうなことになったと名無しの狢は思うたが、見ると侍の怪我は死ぬほどのものではな


「恨みがあるならおのれで晴らせ、頼るな」
「拙者、鹿州手町家の家臣、臼井 亜玉と申す。出城の守備を殿から仰せつかって居ったが、
 盟を結んだはずの馬州下山家の軍勢に襲われ出城を奪われた」
「城を取ったり取られたりが侍の稼業やろ、そんなもんで恨むな」
「手勢が少なすぎた。負け戦は仕方ない。だが、奴らは姫を人質にとった。以前より間者が
 入り込んでいたらしい。己の迂闊は認める。だが姫を人質に取るような卑怯は許せぬ」
「だまされたんやな。そりゃ、たしかに卑劣や」
「刃向かうことも出来ず、次々に倒された。何とか逃げ延びたものの、城は奪われ、姫は奪
 われ殿に顔向けできぬ。この先、生きても詮無し。しからば物の怪よ、我が命好きにする
 がいい。その代わり、どうか我が恨みを晴らしてくれ」
どうしてわしの所には死にたい人間ばかりくるのじゃろう。名無しの物の怪は嘆いた

「臼井とやら、ぬしの怪我は死ぬほどやない。命をもらう趣味もない。やが、今少し暴れた
 い気分ではある。ぬしの復習に手を貸してやろうか」
「まことでござるか、狸殿」
その場でぶち殺したくなった名無しの狢じゃが、なんとかこらえた
下山家は大きなところで沢山の軍勢がいる。姫はおそらく下山家の本城に囚われていて、近
づくこともできんという話じゃ
「まぁ、わしに任せい。これでも妖かしの術を心得とる」
大切な薬草を名無しの狢は侍の疵につけてやった。侍は元気を取り戻した

名無しの狢は今度は別の薬草を口に含み、ふんと気力を高めた。名無しの狢の身体はみるみ
る大きくなり、馬のような獣になった。身体のあちこちから妖気が湯気のように迸り、その
姿はまるで麒麟のようじゃった

「臼井とやら、のるがええ」
「単騎で攻め込む気か」
「なぁに、わしに任せい」
侍は恐る恐る名無しの狢に跨った。名無しの狢は一声嘶くと、一気に走り出した

山を越え川を越え、村々を飛び越えて名無しの狢は走った
馬州に入ると侍がようけ屯しとった。名無しの狢は侍共をけちらし、飛び越え、撥ね除けな
がら一挙に本城にせまった

本城の前では沢山の軍勢が槍を持ち弓を構えておった
「いくら物の怪とはいえ単騎で乗り込むとは無謀よのう」
下山家の侍大将が大音声で迎えた
名無しの狢は四肢を踏ん張り頸を低く下げ、軍勢を睨み、にやりと嗤った。口元から妖気が
あふれ出した
「毒気だ、口を押さえよ」
混乱の隙をついて、名無しの狢は侍大将に一気に近寄った
「人間のくせに大口たたきおって、その口閉じれんようにしてやろうぞ」
名無しの狢は後ろ脚で立ち上がり、前脚の蹄を呆気にとられる侍大将の顔に叩き込んだ
侍大将の顔が蹄の形に凹み、耳から血と脳漿が吹き出した

逃げ惑う兵隊に名無しの狢は襲いかかった。侍の頭を叩き、腹を蹴り、踏みつぶしていった
突き出される槍を軽々とかわし、飛び来る矢を跨ぎ、兵隊を倒していった
掘りを軽々と飛び越え、城中に飛び込み女子供も容赦なく踏みつけていった

名無しの狢は殺戮に酔いしれていた
「もっとかかってこい、もっとかかってこい。わしを殺れるものなら殺ってみい」
いつしか背中の侍が振り落とされたのにも気付かんかった
「わははは、わははは、わははは」
城中深く入り込み、遂に最後の部屋に辿り着いた。部屋の中には男が一人おった

「ぬしが殿さんかい」
「おのれ物の怪の力まで借りるとは卑怯千万」
「騙し討ちするようなもんに言われる筋合いはないわい。ぬしも同じ穴の狢じゃ」
名無しの狢は男に体当たりした。男ははじき飛ばされ壁にぶつかり赤い人型を残して崩れ落
ちた

さてと、何じゃったかのう、一息ついた名無しの狢は考えた
「そうじゃ、姫じゃ。ころっと忘れとった」

名無しの狢は城の地獄の底に降りていった。牢があった。木檻を易々と壊し、名無しの狢は
奥に進んだ
年の頃十四五歳の娘が居った。娘は名無しの狢を目にとめると
「ひっ、化け物」
と言って気を失った
「化けもんとは失礼な娘じゃ。これが姫さんかのう」
最後の木檻を壊し、名無しの狢は姫を抱きかかえようとした
「しもうた、この手じゃかかえられん」
名無しの狢はみるみる小さくなり、人型になった。その顔は背中に乗せた侍と同じじゃった

姫を抱きかかえ、名無しの狢は表に出た。城は火に包まれていた。歩く先々に兵隊の骸が転
がっていた。名無しの狢は大声で叫んだ
「臼井ーっ、臼井はどこじゃ」
名無しの狢は叫びながら侍を捜した
「臼井ーっ、返事をせい、臼井っ。こん娘が姫さんかどうか確かめてくれーい」

臼井の骸は大手門の内側にあった
名無しの狢は姫をそっと降ろし、臼井の骸を確かめた。胸に槍疵。一突きで絶命したようじゃ

小さな呻きを上げて、姫が気付いた。姫は名無しの狢を認めると、こう言った
「臼井?これはどうしたことです。あの化け物はいった」
「化け物はわしじゃ。本物の臼井とやらは、そこに転がっとる」
姫は臼井の骸までよろよろと歩き、跪いた
「嗚呼、臼井。私を助けようとしてくれたのですね」
そう言って姫は手を会わせた
「して、化け物とやら、そなたは何者です。臼井の仲間ですか」
姫は正面から名無しの狢を見つめた
「ま、かくしとってもしゃーないな」
そういうと名無しの狢はしゅるしゅると小さくなり、元の狢の姿となった

「狢・・・・・・さん?」
「なんじゃ、わしを知っとるんか、わしはあんたなんか知らん」
「わかりませんか、あたしです。狢さんに拾ってもらったあたしです」
「ほぉ、これは驚きじゃ。今度は侍の子に産まれたか」
「はい。あたしもまさか殿様の子供になるとは思っても見ませんでした」
名無しの狢は驚くやら呆れるやら

「今度の親はどうじゃ。甘えられたか」
「大層大事に育てられました。でも殿様の子です。そうそう親に甘えることはできません
 でした。ましてやこのような時代です。いかに見苦しくなく死ぬかを教えられて生きて
 きました」
「せか。人間の世界はけったいじゃのう。して、これからどがいする」
「城に戻りたいと思います。馴染みのない親ですが、親は親です。侍の子として親に孝行
 したいと思います」
「立派なもんじゃの。よっしゃ。乗りかかった舟や。一肌脱いだろ」
そう言うと名無しの狢は見る見る大きくなり、麒麟にもどった

「さあ、乗れい。城まで送っちゃる」
名無しの狢は走った。じゃが、すぐ走るのを止めた
侍の子とはいえ女子、早馬には耐えられんかった
「まぁ、あわてたってしゃーない」
名無しの狢は妖気を出すのを止め、麒麟は馬になった

ぽこぽこと馬はあるき、山を越え、川を渡って馬州から出た
また、何日かかけ、山を越え、川を渡り、村を過ぎてようやく鹿州にたどりついた

「さぁて、お城とやらはどこかいのう」
何日もの馬旅で、姫はすっかりまいってしもうた。ようように名無しの狢の背にしがみつ
いとるだけじゃった

日暮れ頃、村の離れの井戸で鍬を洗うとる男が見えた
「すまんがのう、ちくと物を訪ねたい」
「なんですかいのう」
男は振り返ると、目の前に馬の顔があった
「お城へ行くにはどういったらええかのう」
名無しの狸が言い終わる前に、男は腰を抜かし、口から泡を吹いて白目で倒れよった

「なんじゃい、肝の細ぃやっちゃのう。馬が喋ったくらいで腰抜かすやつがあるかい」
名無しの狸はしゅるしゅると小さくなり、臼井になった
「姫さんもつかれたじゃろ。ここらで水車小屋でん見つけて休もうか」
名無しの狢は小川沿いに水車小屋を見つけ、姫と入り休んだ

次の日の朝、名無しの狢と姫はあたりのただならぬ気配で目を覚ました
入り口を開けようとすると外から無理矢理に開かれて、侍の集団がなだれ込んできた
なすすべもなく名無しの狢と姫は縛り上げられ、引き立てられた
「乱暴な連中じゃのぉ、自分とこの姫さんがわからんのか」
「黙れ、物の怪」
そういうことかい、名無しの狢は察した。まぁええわい、これで城を探す手間が省けると
名無しの狢は思うた。こんな縄、いつでん外せるわい
「だいじょうぶかい、姫さんよう」
「はい、なんとか。いずれわかってくれると思います」

名無しの狢と姫は城のある町に流れる川の河原に連れられた。河原から城が見えた
まわりをぐるりと侍たちがとりかこんだ。名無しの狢と姫の前に離れて床几が置かれた
名無しの狢が、さてこの先どがいしようかのうと考えていると、本物の馬に跨った侍がやっ
てきた。姫が小声でこう言った
「狢さん。父です」
「ほうかい、あれが、殿さんかい。ほいじゃ見たら判るじゃろうから、すぐ解いてくれる
 のう」

馬から下りた殿様は床几に座った。脇を槍を携えた小姓が固めた
「ほう、よく臼井に化けたな、物の怪よ。そちらの企みはなんじゃ」
「企みなんぞないわい。ぬしの娘をとどけに来ただけじゃ」
「そちが臼井に化けたよう、物の怪が我が娘に化けたのではないという保証はなかろう」
「親なら一目見りゃわかろうが」
殿様はすっくと立ち上がり、こう言った
「たわけがっ。我が娘は出城にて立派に自害したと報告を受けておるわ。大方下山から頼
 まれて誑かしに来たのであろうが、そうはいかぬわ。全てお見通しだっ」
「なっ」
「者共、射よっ」
殿様は軍扇をさっと名無しの狢に向けた

ひゅんひゅんひゅん

矢が名無しの狢めがけて飛んだ
「ふん、そがいなもんが、わしに・・・」
名無しの狢が念を飛び来る矢にかけようとしたその刹那、黒い影が名無しの狢の前に飛び
出し、そのままどうと倒れた
縄にくくられたままの姫の身体に矢が刺さり、血が噴き出した
「姫さんっ」

名無しの狢はおのが縄と姫の縄を念で吹き飛ばし、姫に駆け寄って抱き上げた。無数の矢
は名無しの狢と姫の前で力無く落ち、砕け散り、またあらぬ方へ飛び去った
「姫さん、しっかりせい。急所ははずれちょる。死ぬような怪我じゃなか」
「えぇい、者共、射よっ、射殺してしまえぇ」
名無しの狢の手の中で姫はうっすらと目をあけ、白い顔がほころんだ。そして目を閉じた
名無しの狢は全身の毛が逆立つのを感じた。その姿形は人だがもはや臼井ではなく、顔は
狢そのもので毛むくじゃらであった

「とうとう正体を顕しおったな、物の怪め。世が直々に成敗してくれるわ」
殿様は腰の刀を抜いた。名無しの狢は殿様を見据えた。名無しの狢の目が赤々と光り、
「はうっ」
のかけ声と共に名無しの狢の口から妖気が四方に飛び散った。侍たちの動きが止まった
あるものは弓を引き絞ったまま、あるものは次の矢を手にとったまま、小姓は槍を名無し
の狢の方に向けたまま、そして殿様は刀を抜いて、八相に構えようとしたその姿のまま

「おまえら人でなしじゃ、我が娘を平気で殺す人でなしじゃ。たとえ娘でのうても、姿形
 が変わらんもんをよう殺そうとできるのぅ。ちょっと前までかわいがっとった子供やな
 いか、慕っとった姫さんやないか。よう覚えとけよぉ、孫子の代まで安穏と暮らせると
 思うなよぉ、この狢様がなぁ、末代まで祟ってやるからな」
名無しの狢は吼えた。名無しの狢の怒りは静まらなかった

名無しの狢は姫を抱いたまま殿様の方につかつかと歩み寄った。侍どもは、動かぬ身体で
目だけで名無しの狢を追った

「よう、殿さんよ。よう見ぃな。これが物の怪に見えるんかい。あぁ?」
殿様の目は恐怖で引きつった
「おんしだけは、殺られる身を味わってもらおうかのう」
名無しの狢は姫を抱き変えると、殿様の振り上げかかった刀をとった
「ええ刀じゃのう。殿さんともなると、持ちもんもええのう。どんだけ切れ味がええか、
 わしが試しちゃろう」

名無しの狢は無造作に刀を殿様の腹に刺した。刀は殿様の身体を突き抜いた
「切れ味も申し分ないのう、のう、殿さんよ」
名無しの狢は刀を捻ると上へ、心の臓へ刀を動かした。殿様の目は目玉よりも大きく開か
れた

名無しの狢が刀の柄から手を離すと、刀はすっと消えた。刀は殿様の手に握られ、上を向
こうとしたままじゃった。名無しの狢は殿様に嗤いかけた
「どうや、殺られる気分は。ほんまに殺ってもええが、姫さん悲しむけんのう」

そして、名無しの狢は俯き、悲しげにつぶやいた
「おまえら、畜生以下じゃ。妖怪以下じゃ」

名無しの狢はくるりとまわり、侍どもを後にした
「さぁ、姫さん。帰ろう。わしらの巣に帰ろう」

侍どもが束縛から放たれ、その場にへたりこんだのは、殿様の小便もとうに乾き、日も暮
れかかるころじゃった。物の怪共が蠢き出す時分じゃった

巣に戻る途中、姫さんを気遣って少しでも休めるよう名無しの狢はいくどか百姓屋の入り
口を叩いた。しかし、百姓屋の入り口は固く閉ざされたままじゃった
「侍だけやのう、おえらもか。同じ人間じゃろ、何度も死んだ娘にちぃたぁ憐憫を感じん
 のか」
名無しの狢は吐き捨てたが、百姓屋が開かれることはなかった

ようようの態で名無しの狢は巣に戻った。姫は弱々しくも息はしとった
名無しの狢は何日も何晩も姫を看病した。傷口に滅多に手に入らぬ薬草を惜しげもなく塗っ
た。滋養の汁を口に含ませた。姫は目覚めることなく、命の火はだんだんにか細うなって
いった

「もぉええ、もぉええ」

名無しの狢は目覚めぬ姫に語りかけた

「ぬしは人の何倍も人の悲しみを味おうた。人の何倍もこの世の儚さを味おうた。もぉえ
 え、人間の世界に帰えらんでええ。わしと一緒にここで暮らそう。わしがずっとずっと
 優しくしちゃるけん。やから、もぉええ。人にならんでええ。のぉ」
姫は死んだ。姫の思念は霧が晴れるように薄くなり散っていった

「消えた」

白い顔は美しかった

名無しの狢は穴を掘って姫を入れ、土まんじゅうをつくった
その晩、灰色狐が酒をもって訪ねてきた
名無しの狢は黙って飲んだ。灰色狐は黙って飲んだ

それからまた季節は繰り返し、名無しの狢は人を襲い、人を化かし、人を困らせて暮らした
今でも人を襲い、人を化かし、人を困らせて暮らしとるそうじゃ

どっとはらえ

初出:01FEB2007-07FEB2007 前世物語スレ


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狢 屋 敷に逝く さぁ、妖かしの世界へ逝こうか
前世物語に逝く 心が健全なもんはやめとった方がええ

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